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山田木綿織元に聞く  会津木綿の歩んだ歴史と代えがたいその魅力とは

麻から木綿へ。当時の普段着の生地を一変させた木綿の力とは? そして全国に広まった木綿の中でも、会津木綿がなぜ産業として成立したのか? どんな特徴があるのか? 1905年(明治38年)創業の老舗の織元、山田木綿織元の3代目にあたる社長・山田悦史さんに、たくさんの疑問を投げかけながら、お話を伺ってきました。
photo: Takashi Sakamoto / text: Tomoki Nakamura
工場では、27台の力織機があり、常に17~18台ほどが稼働している。この工場も無料で見学が可能(予約不要)。

麻から木綿へ。私たちの暮らしを変えた木綿のすごいところ

植物の綿(わた)からとれた繊維をもとにつくられた木綿。その誕生は麻や絹などの生地よりも実は遅く、江戸時代になってから。しかし、この木綿の登場により、庶民の衣生活は大きく変わっていくことになります。
木綿の利点については、民俗学者・柳田国男氏が著書『木綿以前の事』でも語っているほどで、柳田氏はその利点として、「肌ざわり」と「染めの容易さ」の2点を挙げています。
「木綿が我々の生活に与えた影響が、毛糸のスエーターやその一つ前のいわゆるメリンスなどよりも、遥かに偉大なものであったことはよく想像することができる。…(省略)…木綿の若い人たちに好ましかった点は、新たに流行して来たものというほかに、なお少なくとも二つはあった。第一には肌ざわり、野山に働く男女にとっては、絹は物遠く且つあまりにも滑らかでややつめたい。柔かさと摩擦の快さは、むしろ木綿の方が優っていた。第二には色々の染めが容易なこと、是は今までは絹階級の特典かと思っていたのに、木綿も我々の好み次第に、どんな派手な色模様にでも染まった。」{(柳田国男著/『木綿以前の事』/初出は「女性」/1924年刊)より}
木綿は伸びにくく丈夫であり、繊維内部に空洞があることで、軽さと高い保温性、吸湿性を生み出しています。肌ざわりもよく、浴衣のような単衣や足袋、布団などさまざまな用途で使用されました。高価な絹と違い、木綿は値段が安く手に入れやすい。麻と比べると、木綿は繊維の質がよく、収穫後の加工も容易だったことで、その作業量の少なさから、木綿は急速に庶民に普及したようです。

木綿の産地と会津木綿の特徴

木綿はもともと南方の植物で、その産地は、伊勢木綿、丹波木綿、松坂木綿、遠州木綿など、西日本の産地が多かったのですが、栽培エリアが広まり、技術も伝えられることで、産地が北上していきました。
山田悦史さんのお話によると、会津地方は綿花栽培の北限といわれ、他の地域の綿花と比べると繊維が短く、紡いだ糸は太くなり、厚手の生地になるのが特徴とのこと。緯糸のふくらみにより経糸と緯糸の間に空気を含み、他の木綿と比べて保温性、吸湿性に優れる織物になるそうです。これは、夏のうだるような暑さ、そして冬の厳しい寒さにも使用でき、通年を通して着心地が良い生地として、いっそう普及することになったのです。
しかも厚みがあるということは、より丈夫であり、長持ちするという利点も忘れてはいけません。会津木綿が、農作業の仕事着として使われながらも、古くなったものを布切れにして刺縫いし、ボロとして着続けられたのも、木綿ならではと言えるのではないでしょうか。
会津木綿の特徴の1つに、独特の縞模様があります。絣などと比べると縞模様をつくる技術は比較的容易で、生産性が高いことが会津木綿を1つの産業に押し上げた要因だそうです。また、糸の色や幅を変えると別の模様になることも、柄の多様性を生み出しやすい要因でした。生地見本帳には創業時から収められた200を超える縞柄が揃っていて、たとえば猪苗代縞や南会津地方の縞、新潟県境や喜多方の縞など、他の地方との違いを出している縞も収められていました。今でいう地域固有のユニフォームのような感覚と言えるかもしれません。

「猪苗代縞」と呼ばれる縞模様。地名が生地の名前になっている。

会津に木綿をもたらした蒲生氏郷

元をたどれば、会津木綿は戦国大名の蒲生氏郷(がもううじさと)が、前任地の伊勢松坂の綿織物「松坂木綿」の製織技術を伝えたのが始まりといわれています。なぜ氏郷は、会津に来て木綿の技術をもたらしたのか。そして、この氏郷はどんな人物だったのでしょうか。少し編集部で調べてみました。

氏郷は、近江国(現在の滋賀県)の日野城の城主の嫡男として生まれました。織田信長に臣従した際に人質となりましたが、持ち前の才覚を発揮し、武功を立てていきます
織田信長に認められた蒲生氏郷の器量は、天下人となった豊臣秀吉も一目置いていました。家臣たちとのふざけた会話の中で、「100万もの大軍の采配をさせたい武将は誰か?」という質問に、家臣たちが前田利家、徳川家康と名を挙げたものの、秀吉は「蒲生氏郷だ」と答えたという逸話もあるほどです。また、氏郷は千利休の弟子でもあり、利休七哲にも数えられる一流の茶人でもありました。戦国武将でありつつも、文化人としての一面も持ち合わせていたのです。
そんな氏郷は、秀吉の命で会津に国替をします。当時の会津は、伊達政宗と徳川家康が要所の陣取りをしていた時代。両者の監視役としての能力を買われたのでしょう。氏郷は商業政策を重視し、定期市を開き、楽市・楽座を導入し、さらに手工業を推し進めたそうで、これにより、江戸時代の会津藩の発展の礎を築いたと言われています。氏郷がいなければ、会津木綿は無かったのもかもしれない。そう考えると、氏郷のもたらしたものの大きさが理解できます。

山田木綿織元が歩んだ歴史とこれから

明治時代に入ると、手織りで行っていた工程に力織機が登場し、大量生産が可能になります。明治時代末から大正時代にかけては会津木綿の生産の最盛期。そのころ、会津木綿の織元は、大小合わせて30社近くあったと山田さんは言います。
山田さんは現在3代目。山田木綿織元ももともとは手織り工として立ち上がりましたが、力織機の存在にいち早く気づき、豊田式力織機を取り入れました。今もこの年代物の自動織機は山田さんの工場で現役として稼働しています。
当時は高度成長期の波が押し寄せ始めていて、会津木綿の役割も大きく変わろうとしていた時期だった、と山田さんは言います。それ以前の木綿は農家の作業着としての利用が主で、寒さ対策もあって16番など太めの単糸を使った厚手の生地が求められました。しかし、農家の機械化が進み、農作業時間が短くなることで、作業着の需要も減っていきます。同時に化学繊維も登場し、繊維のマーケットが変わる過渡期に入っていきます。

今も現役として働く豊田式織機。

山田さんは1974年(昭和49年)に当時勤めていた商社を退社し、山田木綿織元を引き継ぎます。そのころの織元の数は9社だったそうです。当時は、すでに農作業着ではなく、和装の需要が高まっていて、山田木綿織元も糸の太さを細くし、20番と40番の双糸にして対応しました。手織りの風合いを入れるため節糸を緯糸に使うなどの工夫もしました。
しかし、その和装でさえも日常で着る機会が少なくなり、洋服の生活が一般的になる時代が訪れます。このときは観光地としての会津に着目し、旅館の作業着やおみやげの素材として提案したり、またランチョンマット、ポーチ、コースターなどの小物からインテリア雑貨といった幅広い用途に目を向け、手芸ブームのタイミングを把握し、手芸店に生地を卸していったのが良かった、と山田さんは当時を振り返りました。

今までの伝統を守りながら、今後もあくまで素材メーカーとしての立ち位置を貫きたいと、山田さん。昭和30年代や50年代の縞見本帳を見せていただいたときにも、古い見本帳から復刻したばかりの生地の話になったり、色や幅を変えたときの柄の違いなど、デザインのお話はいつまでも止みません。これからも山田さんは、資料となる200を超える縞見本を活かしながら、時代の流れに寄り添って、新たな需要に向けた新たな柄を織り続けていくのだと実感せずにはいられませんでした。

山田さんの木綿を使った、お客さんお手製のタペストリーも店内に飾られていた。

INFORMATION

山田木綿織元

住所:福島県会津若松市七日町11-5
TEL:0242-22-1632
(店舗)営業時間 9:00~17:00、定休日 年中無休
※年始年末、冬季の土日祝など臨時休業をいただくことがあります。
(工場)稼働時間 8:30~16:20(12:00~13:00は昼休憩)、定休日 土日祝  
HP:https://yamadamomen.com/

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