なぜ会津には伝統の手仕事が多いのか? その謎をさぐる
会津盆地の特異性
福島県の会津地方にはなぜ独特な風習や伝統が残されているのか。山口さんは、まずは会津地方に特徴的な地形について説明してくれました。
「会津の地形や気候などの自然条件が大いに関係していると思います。地形的には、奥羽山脈、越後山脈、飯豊山地などに囲まれた盆地であること。これは、どこから会津に入るにも峠を越えなければならないことを意味します。阿賀川は会津盆地に流れていますが、他の地域から会津に行くには船で川を遡る必要がありました。このように人や物が行き来するための交通の便が良くなかったために、閉鎖的な環境であっただろうと推察できます。
地形的特徴もあり、関東から見た会津が、東北地方の入り口だったのは間違いありません。日光街道や白河街道などいくつかの街道を経て、関東の文化が、会津に伝わっていった歴史があるのです。
ちなみに、会津の冬は11月ごろから翌年3月くらいまで。“雪に閉ざされる”という言葉どおりの、雪が降り続ける豪雪地帯です。冬は外仕事が少なくなるため、家の中でものづくりをする機会が多かったことは容易に考えられます。“会津では、わらじを10足くらい作ることが小学校の宿題だった”という話を聞いたこともあります。
“会津の三泣き”という言葉も、会津では今もなお語り継がれています。この言葉は、1つめに会津の人の「よそ者」に対する冷淡さに泣き、2つめに、慣れてきたころに会津の人の温かな心と人情に触れて泣く、そして3つめは、会津を去るとき離れることのつらさに泣くというものです。これは、一見とっつきにくいが実は心優しい会津の人の性格を表現した言葉であり、盆地という地形的な特徴を合わせても、その閉鎖性や固守性がより強固になっていった経緯が垣間見られます」
会津藩のもと、長きにわたり守られてきた伝統技術
戦国時代にさかのぼると、1590年、蒲生氏郷(がもううじさと)という、織田信長に重用され、信長の死後、秀吉に仕えた武将がいます。この蒲生氏郷は、秀吉が伊達政宗の勢力を押さえるため会津に配置されましたが、当時漆工芸を会津に持ち込んだり、綿花栽培と共に、前任地の伊勢松坂の綿織物「松坂木綿」の製織技術を伝えたといわれています。じつはこの製造技術こそが、現在の会津木綿の始まりなのです。
蒲生氏郷以降、会津藩は上杉家、加藤家、保科家などが藩主となり、特に保科正之(ほしなまさゆき)は農政などに手腕を示して藩体制を確立。綿花栽培と木綿織物の生産を奨励し、会津は綿織物の生産地として発展し、会津木綿は特産品として普及していきました。ちなみに木綿の北限は会津とされ、この発展の背景になっているとされています。
その後、保科正容(ほしなまさかた)のときには松平の姓と葵の紋を許され、会津松平藩は御三家に次ぐ御家門としての地位を得て、封建体制を長年にわたり強めていきました。その体制は外から見れば閉鎖性があり、歴史の流れにおいても、工芸技術や民俗はより固守されていったと思われます。
会津に残されている手仕事たち
会津には数多くの手仕事が残されています。それはなぜなのか? 山脈に囲まれた地形と会津の人に見られがちな、一見打ち解けにくい閉鎖性や、地理的には関東から東北に向かうときの重要な拠点であったこと、その時代ごとに多様な文化が流入し、流出せずにとどまる傾向があったこと…ほかにも、理由を挙げればきりがないのですが、かなりその全容が見えてきました。
では、どんな手仕事が今も残されているのでしょうか。たとえば、会津は漆の産地として知られています。今でも会津漆器は伝統工芸として全国的に有名です。また、その漆の幹からつくられる漆液と、実から搾った蝋により、会津では蝋燭が産業として成立していきました。会津絵蝋燭は、菊・牡丹・梅などの絵柄が描かれた、人気のお土産品です。
奥会津の「ふるさと会津工人まつり」は、全国から約150の作り手が集まるイベントです。このイベントの多くを占めるのが編み組細工、いわゆる“かご編み”です。地元で採れるヒロロ、山ブドウ、マタタビなどを材料に、積雪期の手仕事として、かご類(手さげかご、肩かけかごなど)や、さまざまな器が作られています。
昭和村には、からむし織が残されています。からむし織の材料である“からむし”は苧麻(ちょま)とも呼ばれるイラクサ科の草で、お隣の新潟県の平織の麻織物「越後上布」の原料として栽培が続けられています。からむしの産地は、今は沖縄県とこの昭和村だけになったといわれていて、春先の野焼きから苗の植え替え、刈り取り、夏に繊維部分を取り出す苧引き(からむしひき)を経て、糸づくり、そして織りまでと、1年がかりの期間と手間を要します。
縞柄が特徴的な会津木綿は、麻や絹などと比べ、肌ざわりの良さと何よりもその温かさが、冬の寒さを乗り越えるのに重宝されました。江戸時代以来の農民の作業着とされ、博物館にも展示している猿袴(サッパカマ、サルバカマ)などは会津の伝統的な農作業着に使われていたと言われています。
山口さんが猿袴の調査していたときに聞いたお話とのことですが、1年目はつくって出来上がった状態で使い続け、2年目はほどいて裏返して縫い直して着る。3年目には継ぎあてをして…とのこと。まさに、布は残らないで使い切るのが、当然のことなのです。
山口さん曰く「博物館としても資料として寄贈してほしいのですが、じつは今がぎりぎりのタイミング。80代だと実際に仕事着として着用していたからかお話をしてくれますが、70代だと戦後生まれの人が多いのか、仕事着のことをわからない人もいます。さらに消耗品なので、ぼろぼろだから見せたくないという気持ちもあり、よけいに寄贈にまでたどり着かないのかもしれません」。会津は個人の家に蔵のある家が多いのですが、取材をしていて、まだまだあの蔵の中に古い作業着が眠っているのでは、と思わずにはいられませんでした。
今後は形を変えていくか、伝統を維持するか
会津木綿の織元も以前はかなり多くあったようですが、今は3社のみ。刺し子の模様を活かし、現代の生活に合うように、てぬぐいなどの衣料品のように形を変えていくのか、半纏のように伝統として残していくのか、会津の人たちがどのようにしていきたいのかが大事ではないかと、山口さんは話します。
労働の仕組みが変わって農業に従事する人が減り、さらに新しい素材も開発されて使われはじめ、木綿の作業着を使う文脈が弱くなっていったのは間違いありません。ただ、お直し・お繕いなど、ものを大切にする文化はこれからも需要があり、木綿が再び盛り上がる場面も増えていく流れもありそうです。
福島県立博物館では、今年の9月24日まで、『仕事が仕事をしている仕事』と題し夏の企画展を開催しています。このタイトルは、民藝運動を主導していた作家のひとり、河井寛次郎が会津を訪れた際に書き残した言葉。河合のようなものづくりを「仕事」としている人だけではなく、民藝運動が注目をした工芸品や日用品、民藝運動とは関わらなかった手仕事の作り手にも、それぞれの「仕事」観があったはずだと、山口さんは話します。この企画展は、福島を訪れた民藝運動の作家たちの仕事と、民藝が見出した福島の仕事、そして福島に根付いてきた暮しの中で生まれた仕事を合わせた展示となっています。
「会津には、まだまだいろいろなものが残っているはずです。分厚いベースとなるものがあるように思います。それをぜひお見せしたい。先日も三島に行きましたが、すげ傘と蓑をかぶって歩いているおじいさんが、普通に道を歩いているんですよ!」山口さんの本当に楽しそうに話す姿が印象的で、会津の手仕事の奥深さの一端を感じずにはいられませんでした。
台が置かれていた。二本松神社の秋の大祭にて、7つの町内がそれぞれの太鼓台ごとに300以上の提灯を付けて市内を引き廻す。
INFORMATION
福島県立博物館
住所 会津若松市城東町1-25
TEL 0242-28-6000
開館時間 9:30~17:00(最終入館は16:00まで)休館日
・毎週月曜日
月曜日が祝日または振替休日にあたる場合は開館とし、翌火曜日を休館日とします。ただし、8月21日(月)は開館し、8月22日(火)は休館となります。
・祝日の翌日。
祝日の翌日が土・日にあたる場合は開館とします。
・年末・年始
12月28日~1月4日は休館します。
・館内整備休館日
2023年度は館内整備のため、6月27日(火)、12月19日(火)を休館します。
HP https://general-museum.fcs.ed.jp/