南会津の「南郷刺し子」 一針一針に家族への想いを込めて
南郷刺し子の歴史
福島県有数の豪雪地帯の手仕事
福島県の南西部に位置する南会津地方。深い山々に囲まれたこの地域は、夏場は湿度が低く過ごしやすい一方で、冬は背の高さを超える深い雪に覆われ、一面が真っ白い銀世界に染まります。平均気温は0度を下回り、一番寒い時期にはマイナス20度にもなり、積雪が1~2メートルを超えるほどの豪雪地帯でもあります。根雪となる真冬の時期は戸外での作業ができなくなるため、江戸時代から昭和初期頃までは、多くの男性たちが関東地方などに屋根葺き(出稼ぎ)にでかけ、女性たちは保存食や着物の仕立て、機織り、糸つむぎなど、屋内でできる家仕事をして過ごしていました。そんな南会津エリアに伝わる手仕事の一つに「南郷刺し子」があります。
ハレの日の刺し子
「刺し子」とは古くから伝わる手仕事の技法のひとつ。布がとても貴重だった江戸時代以降、日常着として着用していた麻布に布を重ねて木綿糸を刺して生地を補強したり、破けた部分を補修したり、暖かい空気を衣服内に留める保温の工夫として、さまざまな地域で刺し子が生まれました。日本三大刺し子として知られる青森県津軽エリアの「津軽こぎん刺し」、青森県南部エリアの「南部菱刺し」、山形県庄内エリアの「庄内刺し子」は、すべて東北地方に伝わる刺し子です。
一方で「南郷刺し子」の一番の特徴は、刺し子をする対象が“ハレの日に着る絆纏”であったことが、地元の民俗学者、安藤紫香氏の調査記録などにより今に伝わっています。昭和54年頃の写真で、国の要人がこの地を訪れた際、南郷刺し子を着た人が案内する場面が残っており、公式な場で身に着けている記録があることなどからも裏付けられています。
「南郷刺し子がハレの日の刺し子と言われる所以は、絆纏の全面に刺された縁起の良い刺し子模様にあります。背中の中央部分の一番目立つ場所に刺されることが多かったのが麻の葉(あさのは)の模様。生命力が強く成長が早い麻の葉のモチーフには、家族の健康や子の成長、お家繁盛、子孫繁栄などの祈りが込められています。前身頃や袖といった他の箇所にも、亀甲(きっこう)や七宝(しっぽう)つなぎ、柿の花(かきのはな)といった縁起のいい模様が刺されていることから、南郷刺し子は補修や補強を目的としていた刺し子ではないと言えるのではないでしょうか」
ここでいうハレの日とは、結婚式のような特別な日ではなく、日々の暮らしの中の少し特別な時のこと。例えば村の堰上げや宮普請(みやぶしん)、道普請(みちぶしん)など村ぐるみで行う共同作業の時に着て、仕事する時は脱いで働き、仕事の後でそのままお宅に呼ばれた時は、上から絆纏を羽織って祝い酒をごちそうになる、そのような場面で着られていたのだとか。また、命がけの仕事に行く時などにも着用したと馬場さんは言います。
「どんな格好していても、刺し子絆纏を羽織るだけでよそいきの装いになるんです。新しい反物にめでたい模様を刺して、特別なところへ着ていく、刺し子絆纏はそのような役割を担っていたのかもしれません」
南郷刺し子の特徴
新しい生地にめでたい模様を刺す
南郷刺し子がいつごろ始まったか、という記録が示された文献は現在まで見つかっていませんが、江戸時代~明治時代には存在していたのではないかといわれています。
当時、木綿の布はめったに手に入らない大変貴重なものでしたが、この地域の人々は、藍染の木綿生地が手に入ると、木綿の糸で布一面におめでたい模様の刺し子をして1着の絆纏に仕立てていました。新しい生地で作るので、最初は晴れ着として使い、その後は仕事着や作業着、こたつ掛けにしたり、さらに使い古された状態になったら継ぎはぎをして最終的には雑巾として使うなど、用途を変えながら最後まで使い続けたと考えられています。けっして裕福ではない地域であったこともあり「米粒3粒が包める綿布は捨てない」という教えとともに、物を大切に使う文化が根付いていました。
刺し子絆纏の袖の形
南郷刺し子絆纏の袖には2つの形があります。
一つは「角袖」。袖の部分が四角い形になっていて、主に家長や区長、指揮者などのリーダーが着用していました。また、春先に地域の中央を流れる伊南川から田んぼに水を引くための命がけの仕事「大堰普請」(おおぜきぶしん)の際にも着用していたそうです。
もう一つは「むじり袖」といい、袖部分が斜めに折り上げられた形。こちらは家長以外の人、例えば家の中では息子が着用していたそうで、袖の形を見ればその人の位がわかったと馬場さんはいいます。
「男の人たちは、人がたくさん集まる集会に絆纏を着て行くことで、自分の妻にはこんなにいい腕があるんだぞ、と直接言わないながらも主張をしていたようです。また奥さんも、私はこんな模様を刺せるんだぞとアピールするべく、自分の個性が出るよういろいろな刺し子模様を組み合わせてオリジナリティを出していたとも言われています。そのため一つとして同じ模様の絆纏はありません」
しかし、時代が進み和服から洋服への移行といった生活様式の変化により、南郷刺し子の技術と文化は明治時代初期に一度途絶えてしまいます。生地が容易に手に入るようになり、刺し子をしてなくても衣服が着られる時代になったからでしょうか、刺し子絆纏は一着作るのにおそらく2~3年かかっていたと思われますが、そのような大変な思いをして作らなくてもいい時代になっていったのかもしれません。
1人の女性と地元の婦人会が実現した南郷刺し子の復活
一度途絶えてしまった南郷刺し子ですが、平成に入り、地域の人々の力によって復活を遂げます。そのきっかけとなったのが、この地域に二拠点生活をされている原良江(はらよしえ)さんという方。
もともと、文化財・民俗館めぐりや古布の収集を趣味としていた原さんは、1992年ごろに南郷エリアを旅行で訪れた際に、会津博物館南郷館に展示されていた「南郷刺し子絆纏」の展示に目を止めます。 伝統的な技術、古い布といった自分の興味と合致したテーマであったこと、さらに幾重にも刺された刺し子の美しさに強い衝撃を受けました。瞬間的に「これだ」と思い、他の絆纏も見てみたいので所蔵しているかを民俗館の人に尋ねると「地元にはほとんど残っていないんです」との返答。近所に住んでいる人に絆纏を持っているかを聞いても「そんなの今は誰も作る人はいないよ。着る人もいない、何に使うんだ?」と返されるだけで、驚くほど誰も興味を示さなかったといいます。
2008年11月、原さんは旅行の時に撮影していた刺し子絆纏の写真を地域の文化祭で展示しました。しかしそれでも地元の人はあまり興味を示しません。「これは自分が刺し子絆纏を作らないとだめだ」と考え、地域の人や文化財関係者の協力を得て、博物館にあったかつて作られた絆纏を参考にしながら、2009年4月についに一着の刺し子絆纏を完成させます。
そして、その作品を同年11月に行われた村の文化祭に展示。今度はその作品に馬場さんが出会います。
「すごいオーラを感じたので、誰が刺したのかな?と眺めていたら原先生がいらして。南郷の人?これ知っている?と聞かれたので、絆纏は知っていますと話をしました。絆纏の名前は知っていましたが、その頃の私は刺し子が好きではありませんでした。嫁が姑に言われて嫌々刺していた暗い手仕事だと思っていたんです。そのような時代に戻りたくないという気持ちから、知っているけれどあまり好きではないと言ったんです」
すると原さんはこう教えてくれました。
「何を言っているの、南郷刺し子は女性たちが家族や大切な人のことを考え願って一生懸命刺したものなんだよ。けっして嫌々ではないし、南郷にはこういう素晴らしい文化があるんだよ。刺し子の模様にも意味があって、めでたい模様を刺して晴れ着として着たんだよ。この地域の刺し子は決してぼろ継ぎ刺し子ではないんだよ」と。
その後、馬場さんが村史などの文献を調べてみると、原さんがお話してくれた通り、南郷刺し子は家族のことを想い、女性たちが心を込めて自ら刺したもので、無理やりやらされていたのではない、ということが書かれていたといいます。
「その事実を知った時、ああそうだったのかと胸がすく思いがしました。そして刺す人の想いや気持ち、心に感動し、この文化はきちんと残していかないといけない、次の世代に伝統をつながないといけない、と考えるようになったのです」
この展示の後、2009年に婦人会の事業として刺し子絆纏づくりが始まります。この活動により南郷刺し子が復活することとなり、南郷刺し子会が始動することになりました。
>>南会津 南郷刺し子フォトギャラリー
>>伝統と文化を繋ぐ 南郷刺し子会のこれから(前編)
>>伝統と文化を繋ぐ 南郷刺し子会のこれから(後編)