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【ハンガリー刺繍】ホードメゼーヴァーシャールヘイに伝わる毛糸刺繍

カロチャ刺繍にマチョー刺繍、ビビットな色合いで華やかな印象のハンガリー刺繍。そのなかでも、まだよく知られていないのがハンガリーの南東部に位置する「ホードメゼーヴァーシャールヘイ」というある町に伝わる刺繍。その刺繍を伝える活動をする唯一の日本人・田中ちひろさんにお話を伺いました。
photo: Chihiro Tanaka, text: Migrateur editor team

さまざまな文化が交わる国、ハンガリー

東ヨーロッパに位置するハンガリーは、人口約1000万人、首都のブダペストには古くからヨーロッパの重要な経路となっていたドナウ川が静かに流れる国です。北はスロヴァキア、南はクロアチアとセルビア、西はオーストリア、東はルーマニアに囲まれています。
たくさんの国に囲まれた地域性もあり、ハンガリーは古い歴史のなかでオスマン帝国やオーストリア、ソ連などによる占領を経験してきました。その地理的条件と歴史が相まって、ハンガリーにはさまざまな民族と文化が交わりながら共存しています。

さまざまな民族文化が多様にあることは、ハンガリー刺繍の数の多さからも明らかです。その刺繍の数は、約30種類もあるといわれています。刺繍好きなら、カロチャ刺繍や、マチョー刺繍のことをご存じの方も多いでしょうか。実は、有名な刺繍のその陰で、日本ではほとんど知られていない刺繍があります。その刺繍こそが、「ホードメゼーヴァーシャールヘイ」の刺繍です。

模様、ステッチ、色合いがユニーク。

ホードメゼーヴァーシャールヘイという町

ホードメゼーヴァーシャールヘイのトラムの駅。

ホードメゼーヴァーシャールヘイは、ハンガリーの南東に位置する、ルーマニアとセルビアにほど近い、草原に囲まれた町です。かつてそこに暮らした人々は、夏は郊外の草原で羊や牛の世話をし、冬は町で過ごすような二拠点生活をする人が多かったといわれています。
羊と共に暮らす地域の背景からでしょうか、ホードメゼーヴァーシャールヘイの刺繍は毛糸刺繍です。毛糸の素材は、ハンガリーに生息するラツカ羊の羊毛で、染色をしても光沢が出すぎないといった特徴があります。

その色合いはとても落ち着いています。ハンガリー刺繍といえば、ビビッドな赤や青を使用する華やかなイメージですが、ホードメゼーヴァーシャールヘイの刺繍は、シックなイメージ。

草木染め由来の和やかな色合い。

一見地味ともいえますが、目を凝らしてよく見ると、同系色でグラデーションをつくる色彩構成となっていて、その土地独自に根付いた豊かな美意識が感じられます。この刺繍の歴史や図案がまとめられた『Hódmezővásárhelyi hímzések(ホードメゼーヴァーシャールヘイイ ヒームゼーシェック)』(Varga Marianna著 1981年)には、「ホードメゼーヴァーシャールヘイの人々は派手な色を好まなかった。家の内装や服は、いつもシンプルで落ち着いた濃い色で、その中から控えめに淡い色(だいたいは白)がのぞいていた。市場で農村の職人から買った家具を持ち帰り、それを一色に塗っていた。昔も、現在も、カラフルな(多色の)ものが好まれたことはない」(1928年Kiss Lajos)と残されており、落ち着いた色合いを好む人が多いと言い伝えられているようです。

色合いは落ち着きながらも、グラデーションが美しい。

そのシックな色合いは、ホードメゼーヴァーシャールヘイで伝えられていた草木染めが由来です。くるみや藍などの植物染料で染められたことで、その柔らかい素朴な色合いが出ます。現在は、現地で草木染めをできる人がいなくなってしまったため、最後のひとりだった染色家が染めた毛糸が、ホードフォー ホードメゼーヴァーシャールヘイ非営利社会福祉法人(Hódfó Hódmezővásárhelyi Foglalkoztató Közhasznú Nonprofit Kft.)で大切に保管され、地域の人で分け合いながら少しずつ使用しているそうです。この施設は障がい者雇用施設で、この中に伝統刺繍を継承する工房も併設されています。

特殊なステッチと、刺繍の歴史

ほかにも、この刺繍には大きなポイントがあります。それは、ステッチの裏側が点線状になること。表はびっしり、ジグザグ柄などで埋めていくように刺繍しますが、その裏面はすっきりとした点線になります。このステッチ技術は、簡単に機械化できるようなものではありません。昔からこの地域で生活をしてきた人たちによって、その技法を手から手へ受け継いできた伝承の賜物ですよね。ハンガリー語で「sodrott(ショドロット)」(撚られた)というこのステッチ技法は、フランス刺繍に慣れ親しんだ刺繍好きな日本人にとっても新たな扉を開いてくれそうです。

裏面がこのような点線状になる。

このホードメゼーヴァーシャールヘイの刺繍には、まだまだストーリーがあります。それが「この刺繍は生活の中でどのように使われていたのか」ということ。ずばりその答えは、「一般家庭に設けられていた伝統的なベッドに飾る、クッションの装飾」として使われていたことです。

ベッドといっても、そのベッドは寝具ではありません。ベッドの上には、複数個のクッションが飾られます。そのベッドとクッションは、嫁入り道具として準備されるもので、その質とクッションの数が一家の富と社会的地位を忠実に反映していたといわれているそうです。
そのような風習に根差したクッションの側面、つまり家族が日常でよく見える部分に、ホードメゼーヴァーシャールヘイの刺繍は施されていました。
残念ながら現在の一般家庭には、もうこのベッドはほとんど残っていないのですが、当時の一般家庭の家や生活様式を展示する民族資料館、「Népművészeti Tájház(ネープムーヴェーセティ ターイハーズ)」で、そのベッドとクッションの様子を見ることができます。

Népművészeti Tájházに展示されている昔の生活様式。右奥に見えるのがベッド。
刺繍はこのようにクッションの側面を彩るものだった。

ホードメゼーヴァーシャールヘイの人々にとって、家族の生活の一部として寄り添って歩んできたこの刺繍。その用途だけでなく、色合いも、ステッチ技法も、とてもユニークです。刺繍好きなら一度は見てみたい、刺してみたい、好奇心をくすぐる刺繍ではないでしょうか。

PROFILE

田中ちひろ Chihiro Tanaka

大学で美術史を専攻し卒業後、当時日本では習うことの出来なかった刺繍を学びにハンガリーへ。国立ハンガリー伝統工芸館で手仕事を学び、南の街ホードメゼーヴァーシャールヘイの毛糸刺繍を現地作家に師事。担い手の少ない毛糸刺繍の周知に努め、ワークショップ開催や展示に力を注いでいる。

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